大日本帝国海軍の組織と派閥

大日本帝国海軍の最高指揮権

大日本帝国海軍の最高指揮権は天皇が有しているが、組織の管理運営は海軍省・海軍大臣、作戦行動に関する業務は軍令部・軍令部総長が担う。

また、海軍大臣は内閣の閣僚、海軍省は内閣の省だが、軍令部と軍令部総長は内閣の外にある為、閣議の承認は不要。

陸軍も同様で、どこからどこまでが軍政、どこからどこまでが軍令といった対立や内閣が天皇の統帥権を侵害したとする批判から政治のコントロールが効かなくなり、戦前の日本が軍国主義に陥る原因ともなった。

条約派(海軍省側)と艦隊派(軍令部側)

軍事費の削減に積極的な濱口内閣の下、若槻禮次郎元総理と斎藤博外務省情報局長が1930年のロンドン海軍軍縮条約会議に参加。海軍省は賛成の方針だったが、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割、潜水艦保有量が少ないことを理由に反対した。

この条約を巡って、大日本帝国海軍内では「条約派」と「艦隊派」の対立が生まれ、1933年、1934年に艦隊派の大角岑生海軍大臣によって条約派追放人事「大角人事」が行われた。

大角人事の結果、米英との不戦を考えていた谷口尚真大将、堀悌吉中将。対米避戦論を展開していた坂野常善中将が姿を消した。

大艦巨砲主義と航空主兵論

大艦巨砲主義

1905年の日本海海戦で帝政ロシアのバルチック艦隊を撃滅して以降、戦艦を用いた艦隊同士による決戦で戦争の勝敗が決まる大艦巨砲主義、艦隊決戦の思想が至上のものとなっていた。

それは大日本帝国海軍のみならず、世界の海軍でも同じ。1921年にワシントン海軍軍縮条約が結ばれるまで戦艦の建造競争が行われる結果となった。

1937年の条約明け後は大日本帝国海軍は「大和」「長門」。イギリス海軍は「キング・ジョージ5世」「プリンス・オブ・ウェールズ」「デューク・オブ・ヨーク」「アンソウ」「ハウ」。アメリカ海軍は「サウスダコタ」「インディアナ」「マサチューセッツ」「アラバマ」を相次いで起工・就役させた。

航空主兵論(戦艦無用論)

航空技術の発達で将来は航空機が戦艦を撃沈する(1934年時点では不可能)、航空戦で海戦の大局が決まるとの考え。

航空機は1941年12月8日の真珠湾攻撃で大本営がアメリカ海軍の戦艦5隻撃沈、3隻大破と発表。続く12月10日に英国海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する大戦果を上げた。

それでも、1942年春までは以前として戦艦が主兵と考えられていたが、1942年6月のミッドウェー海戦以降は戦備方針が航空優先に切り替わり、大艦巨砲主義の極致である大和型戦艦3番艦「信濃」を空母へ改造。1943年になって航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた。

第二次世界大戦によって航空主兵論、そこから発展した戦艦無用論が正しかったことが証明された。